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昭和40年代 都電 「父の撮った写真  No1」 [昭和の写真]



父の形見のネガを焼いてみた、

古いネガのままだと現像出来ないらしい古いネガを新しいネガに焼いてから現像して貰った。 

紙のネガ入れには、昭和40年代東京都電終り頃のフィルムと記されている。 

都電の愛称は「チンチン電車」だった。

昭和47年11月 都電は荒川線を残して廃止された。



7890541.jpg

地方から上野駅に着いて下町まで都電で行けたんだ、料金は幾ら位だったのかな?覚えていないな。  


 


 


 

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子供の頃 東京都江東区北砂7丁目の親戚のおばさんの家に遊びに行く時によくチンチン電車に乗った、  

運転手さんが手で紐を引っ張って「チンチン」とカネを鳴らしてから出発していた、   

それに合わせて私も大きな声で「チンチン」と言って母を困らせていた。 

 

 

 

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神田須田町?  秋葉原辺りもチンチン電車が走っていたらしい旧交通博物館の万世橋の近くに都電の痕跡が有る。






 

7898748.jpg 

車の型も懐かしい。  

道の真ん中に線路が走っていた、スピードはどれ位出ていたのだろうかそんなに速くなかった気がする。 

 

 

 

道の両側の花は、何を意味しているのかな? 都電のさよなら運行の日だったのだろうか? カメラを構えた人もいる。




 

 

7890553.jpg 

錦糸町でなく錦糸掘車庫? と 門前仲町行き

 

父の都電の写真は20枚近く有ります、近いうちに都電の痕跡と一緒に公開したいと思います。

 

 

 

 

昭和の写真「映画を観たら東京タワーに登りたくなった。」

http://blog.so-net.ne.jp/zabieru1/2007-11-04  


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

タグ:昭和 都電 鉄道
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昭和40年代 都電 「父の撮った写真  No2」 [昭和の写真]

 

 

 

 2007年の記事

 

 

 

 

昭和47年11月 都電は三ノ輪橋から早稲田までの間を運行している荒川線を残して廃止された。

 

 

 

 

↓東京都江東区 昭和40年頃 錦糸町?


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都電の痕跡を探して、錦糸町から 亀戸 大島 北砂 辺りを散策した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さすがに 錦糸町駅前には都電の痕跡らしき物は見当たらなかった。

 

 







7899251[1].jpg

 

 

 

 


 

北砂7丁目のおばさんの家に行った子供の頃の記憶を辿って歩いてみた、このルートを通るのは約35年ぶりです。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

都電の軌道が 亀戸緑道公園 大島緑道公園 となって残されていた、道幅が意外と狭い様な気がした。





 

 

 

 

↑の写真がどこの橋かどうか判りませんが都電が橋を渡るとき水面が真下に見え怖かった記憶が有ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竪川人道橋に都電のレールがそのまま残されていました。  




  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川は埋めたれられ公園にかわり、水路が残されていました。 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タグ:昭和 都電 鉄道

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夏の花が咲いていた。 [昭和の写真]

 

 

 

ムクゲの花は色っぽい、

日差しにその衣装が透けて見える、

とても恥ずかしくて正面から見られない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都調布市 神代植物公園

 

 

 

 

 

古い写真を見ていたら、 

父の二十歳の頃の写真と芝浦岸壁より輸送船に乗船した思い出を綴った短い文章が出てきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芝浦岸壁より輸送船に乗船する、父や妹達家族に見送られる多くの初年兵もそうであった。

船は岸壁を離れる、 戦友一同は甲板に上がりて離れる陸地をみる。

その中の一人が「ああ堂々の輸送船さらば祖国よ栄あれ...」と歌いだす、

その声に合せて合唱しだす、みんな泣いていた。

(↑四行 父の文章)

 

父は戦争にについて 私には何も語ってくれなかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の芝浦は開発が進み古びた船着場が高層ビルに囲まれている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

バブル全盛期にはジュリアナ東京という女性が過激なファションで踊るディスコが有ったらしい、行きたかった。

 

 

 

 

 

 

 

小さなハゼが湧いていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モノレールが頭上を通るたび空気が揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晩年 父は、歌手の瀬川瑛子さんが好きで追っかけをやっていた、

冬の寒い日 テレビ局の玄関で彼女が出てくるのを待続け倒れてしまい、

テレビ局の守衛さんから電話が掛かって来たことも有った。 

 

 

神代植物公園にもよく出掛け 写真を撮っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の花が咲いていた。 

 

 

 

 

 

 

 

東京の空はいつになく澄んでいた。 

 

 

 

 

 

 

 

 



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昭和の写真「映画を観たら東京タワーに登りたくなった。」  [昭和の写真]

 

 

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昭和34年11月24日(1959年11月24日)

僕が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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東京タワ-はもう既に建っていた。               
                                                                                     


 

 

 

 





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都電が庶民の足で、     




 

 

 

 

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まだ東京にも蒸気機関車が走っいた。   

   



 

 

 




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羽田ではプロペラの旅客機が活躍していた。 

 

なぜか昭和39年の東京オリンピックの記憶が無い。

 

 

                                                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

父は「戦争の生き残り」で、

    
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    
東京の大田区辺りの京浜工業地帯で旋盤工をしていた、 

 

汗臭いのが当たり前でビ-ルを飲むと上機嫌だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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若い頃は戦友会にもよく出掛けていたが、

                                                                                                                             

晩年は戦友会もいわゆる人生の成功者達の集まりに成ってしまい、 
  

                                                                                                    

「オレの行く所では無い」と出掛けることは無かった。  
                                                                                                                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高校生の時「お父さんが戦争で殺した人達はどんな表情していた!」と聞いた事が有る、

 

真実を知りたかったから けれど答えてくれなかった。 

                                                                                            

ただ 「経済さえ ちゃんとしていれば そんな事はする必要が無かった」と言っていた、  

 

進学は経済学部にした。

 

 

 

                                                                   

 


 

蒲田のガード下や池上本門寺のお会式で 


                                                 
戦争で手足を失った白装束の人達がアコ-ディオンで、 

 
                                         
「此処はお国の何百里・・・・」と悲しげに演奏していたのを良く見かけたが、 

    
                           
いつの日か居なく成っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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家から帰るといつもテ-ブルの上には母が内職で作った、

    
                                      
「どこから見てもカツラと判るカツラ」がテ-ブルの上に沢山置かれていた。

 

 

                                                                             



僕たち兄弟(私は次男)が小学校の高学年に成った頃、        

                                                                      

母は近所の町工場でトランジスタラジオや玩具のトランシーバの組み立てをしていた、
 

 
その頃は景気が良く 月の石を見る為に行列が出来た大阪万国博に社員旅行に行っていた。

 

                                                  


 

すき焼きのお肉が「豚肉」でなく、

   
                                                      
本当は「牛肉」だと知ったのは小学年二年生の頃だったと思う、

   
                                   
溶き卵ですき焼きの「牛肉」を食べるのは許されない贅沢だと思っていた。 

 





でもこの世で一番美味しい食べ物は母の作ってくれた、    

                                                                                                                   

もう二度と食べられない豚肉入りのカレーライスだったと今でも思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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誕生日とクリスマスにしか食べられないケーキは、

     
                                         
ヤマザキの「バタ-クリーム」で、

    
                                                       
不二家の「生クリーム」のケ-キは買ってくれなかった。 

 

 

 

 

 

 

 

家は貧しかったけれど両親の頑張りで「ひもじい思い」はしたことは無かった。

 

                                               

 

 

 

 

 

 

 

 

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線路脇の家は電車が通る度に揺れた、 
      

                                       
テレビは電波障害を起こし「ザァ-」と成った、  
    

                                                                  
いい場面で「ザァ-」と成ると家族全員で「アッ-」って声を上げていた。                              



 

 

 

 

 

 

 

社会人に成るまで 家にお風呂が無かった、 
    

                                              
銭湯行くと必ず背中を流してくれる優しいおじさんがいた、 
    

                                                  
ある日 いつもの様に背中を流してくれるかと思ったら
    

                                                                                             
泡だらけに成った体で後ろから抱きつき両手を下半身に伸ばして来た。

 

 

 

当時「オカマ」と言う言葉あったが「ホモ」と言う言葉は無かった気がする、 

                               

とんだ「オカマ」体験だった、それ以来銭湯に行くのが怖くなった。   


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幼稚園に入る前 事故に有った。  
          

                                                  

友達のクンちゃんに誘われ道路に放置された解体途中の車の上で遊んでいたら、   

                                                                                 

車が崩れ下敷きに成ってしまった、    

                                                                                           

運良く首だけは外に出ていたが左足が挟まり外に出る事が出来なかった、     

                                                                          

クンちやんが大人を呼びに行くまで時間が掛かり日も暮れ始めていた、 

                                                                               

何時間独りで車の下に居たのだろう、救出された時の痛さは今でも覚えている。

 

 

 

 

 


  

1970年の安保闘争の時 家の近くの線路上で機動隊と学生の衝突が有った、  

 

機動隊に追われた学生?が家の玄関に逃げ込んできた。   
                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小学6年から社会人に成るまで好きだった女の子は僕が町を出る時泣いていた。

 

 

 

 

 

 

父が亡くなる時 ひとり身の私を案じて   
                                                                                    

ナースコール利用して看護婦さんに私を紹介していた。 

 

 

 

 

 

 

子供の頃 事有る毎に私に「育て方を間違えた」と言っていた母が亡くなる時

 

「あきらが居てくれて良かった」と言っていた。               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

39年前家族と一緒に登った東京タワーに一人で登った。 

                                                                  

39年前と同じ様に階段を使って登った、

                                                                                         

 

たやすく登れた筈なのに可也ばてた。  


          

 

                                         

 

夕陽が目にしみた。   
 

 

 

 

 

帰りに何度も振り返り東京タワー見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東京タワーってこんなに綺麗なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2007年の記事を再編集しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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心霊体験「見えない誰か」 [昭和の写真]

 

 

 

 

皇居大.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

不安顔の介護士さん、

「お母様の認知症が進んだらしく、夜中によく独り事を...」

「まるで誰かが横にいるみたい」と、

私に聞いてきた。

介護士さんが何を聞きたいかは解った。













食事をしている時でも、

スプ-ンを持つ母の手が器の上で止まり、

「見えない誰か」に止めなさい!止めなさい!

 
と強い口調で言ったかと思ったら、

しまいにスプ-ンを投げてしまった事も有った。








まるで「見えない誰か」が母の腕を掴んでいる様に見えた、

介護士さんには、「それは、母がもう一人の人格を自分の中に創って話しているだけですよ」と答えた。












こんな事もあった、

3時のおやつの時間、

「見えない誰か」を払い除ける様に右手を左右に大きく振る母、

物凄い形相で「見えない誰か」を追い払おうとしている。

後ろのテ-ブルに着いているお婆さん達、喉を潰した様な声で

「お化け~」「お化け~」と叫んだ。








横に座る母の目を見たら、小さい声で「お化け」と教えてくれた。

私には、それが「お化け」でなく、母を迎えに来た「死神」に思えた。

私は、見えない「死神」にもう少し母と居させてくれと頼んだ。










「もう少しとは、いつまでだ!」と聞く「死神」に、後3ヶ月と答えてしまった。









母は、3ヶ月後の夏の暑い日に逝ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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昭和32年 象のはま子とマリ子  [昭和の写真]

 

ハマ子さん1.jpg


神奈川県横浜市 野毛山動物園 

 


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昭和36年 上野動物園 [昭和の写真]

 

上野動物園大.jpg

 

東京都台東区 上野動物園

 

 

彰絵本大.jpg

 

 


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象のはま子とマリコ? [昭和の写真]

 



昭和32年頃の野毛山動物園

 

日の出町ssss.jpg 

                                                                                                                                                                          

神奈川県横浜市

 

 

 


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